福島原発告訴団の陳述書

福島原発告訴団の告訴人となり、以下の陳述書を記載しました。2012年11月15日には、13262人の告訴・告発人とともに、福島地検に提出しています。

この時の想いを記録しておこうと思います。

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私は原発事故が起こって以来、心が押しつぶされています。

中学生と高校生のふたりの子どもたちを放射能被害から少しでも守るため、原発爆発当時、外出を控えさせる、窓を開けない、外へ出る時はマスクとビニールガッパといった、最低限の外部被ばくを防ぐ努力をさせました。しかし、議員という責任ある立場にある身でもあり、子どもといっしょにどこかに避難するわけにも行かず、この場をしのぎながら、せめて子どもたちの安全を守る努力を周囲の知人には呼びかけていました。

自らの意志で農業高校に進学を決めた高校生に、農業実習をやらないでほしいとは言えません。しかし、農地は汚染され高校の茶畑から基準値を大きく超えるセシウムが検出されました。毎年、高校生と芋掘りを楽しんでいる近くの保育園は芋掘りを断ってきました。それでも高校の実習では芋掘りをしなくてはなりません。今でも毎日の実習の際に外部被ばくをしているのではないか、と心配し続けています。せめて内部被ばくを押さえる努力をするしかありません。

中学生高校生といった、食べ盛りの成長期である子どもたちの食べ物を制限するわけにはいかず、家族みなで放射能汚染について学びながら、できる範囲で気をつけていくことしかできません。

東京・小金井という場所で生きて行くことを選びましたが、このままここで暮らし続けていいのか、という思いや子どもの将来への不安が消えることはありません。

自分の家族だけではなく、周囲の親たちも同じような思いを持つ人たちが多く、どうすればいいのか思い悩まないことはない日常となってしまいました。

そして、福島から避難してきている親子たちや、福島に残らざるえない人々の声を聞くにつれ、原子力発電で作られた東京電力を使い続けてきた自分自身を責める日々となりました。

今、私は『ふるさと』という唄を歌うことはできません。デモの集会でみんなで『ふるさと』を歌っていた時、胸がつまり涙が流れ、歌うことができなくなりました。こんなにも多くの人々が、戦争でもないのに、ふるさとを奪われてしまった、そのあまりにも重い事実に胸が押しつぶされてしまったのです。

なんの批判もせず東京電力を使い続けてきた私たちには、その無知を知り、今回の原発事故を起こし被害を拡大させた原因と責任を追求する、責任と義務と権利があります。

2度とこのような悲惨な原発事故を繰り返さないためにも、検察の責任において事故の原因と責任がしっかりと追求されることを望みます。