林ゼミ・沖縄戦 超ハードスタディツアー よろよろ参加記

(日本の戦争責任資料センター発行『Let’s 58号』(2008)掲載)

2/29から3/3まで、関東学院大学の林博史教授ゼミの「沖縄戦スタディツアー」に参加させて頂いた。その記録と印象の雑文である。

私はこれまで沖縄に行ったこともなければ、特に関心があるわけでもなかった。昨年9月の県民大会後に沖縄戦「集団自決」教科書検定についての意見書が国立や三多摩各地の市議会から出る動きがあると新聞で知り、小金井ではどうなっているのか議員に聞いたところ、全く動きがないと知る。それならばと、小金井市内の先生と保護者と市民の集まりである「教育ってなんだろう?」こがねい連絡会から要望書を出し、議会の最後ギリギリに全会一致で意見書提出が採択された。そんな責任もありそれ以降、沖縄戦検定問題と関わる次第となったわけである。

こんな私にとって、今回のツアーはちょっと敷居が高いと思っていたが、結果的には、初めて訪れる沖縄の空気や文化をコアな歴史と同時平行に感じる、非常に中身が濃い旅となった。

2/293/1は南風原文化センターの古賀さんが案内をしてくれた。

車での移動中、コンクリの壁にペンキで描かれて、はげかかった看板が目につく。台風の影響か。木も背が低く、畑の土は赤くゴツゴツしている。風が冷たい。

まずは美里国民学校跡近くの【奉安殿】へ。銃痕がいまだ生々しく、菊の紋が半分取れたまま。本来は学校正門近くにあり、毎朝毎夕、子どもが最敬礼させられていたが、米軍に取られる前に天皇の写真などの中身は焼かれたという。現在は石垣市と沖縄市にのみ完全な形で残る。

次に【忠魂碑】へ。小学校裏にひっそり安置され、その大きさと銃弾のようなデザインが異様。PCで打つとすぐに「忠魂碑」と変換したのも驚きである。

【うるま市石川歴史民俗資料館】。石川は戦後教育発祥の地。454月に収容所となり5月に小学校開校。8月に沖縄諮詢会設置。45年中に婦人も含む全国初の選挙があったという。戦後がいち早く始まった場所と言えるのだろうか。59630日の「宮森小ジェット機墜落事故」の展示。児童11名死亡。ミルク給食の時間に校舎をジェット機が直撃した。40年後に飛行機整備不良のためと判明。83年、映画『オキナワの少年』のモチーフになった。監督の新城卓は石原慎太郎製作総指揮の『俺は、君のためにこそ死ににいく』の監督でもあるという矛盾。91年、石川高校の生徒が「沖縄戦 宮森小学校ジェット機事故」劇創作。これは観てみたい。

【キャンプハンセン】を通りすぎる。金武町では95年少女暴行事件が起きた。大砲と機関銃の実地演習のため、近くの山はところどころ禿げ山。4町村分の土地を使用。近くの公民館の非常階段から中が見える。ツアーのメンツがフラッシュをたいて写真を撮っている姿が基地からも見えているはず。

住宅地をちょっと迷いながら【辺野古海上基地建設計画地】に到着。ぐるぐる巻きの鉄条網が恐ろしい。とがった針ではなくかみそりの歯のよう。ここに来たイラクの人が鉄条網をギュッと握り手から血を流しながら、日本が米軍を踏み止まらせないので自分の国では多くの命が奪われているんだ、と訴えたという。

読谷村、知花昌一氏の【何我舎(ヌーガヤ)】にて宿泊。夜はバーベキュー懇親会。知花さんは「町起こしには、ワカモノ(文字通り)、ヨソモノ(移住してきた人はお金はないが情報や新しいアイディアを持っている)、バカモノ(それらを受け入れる地元の人間)が必要だ」と語る。とっても納得できる話。近所のおじさんたちにも聞かせてあげたい。三線と歌。屋嘉節、喜納昌吉の歌、アサドゥヤユンタの春歌版、十九の夜(春歌)など。だんだんエッチな歌になってくる。「知花は押し入れに日の丸を大事にしまっている、と言う人がいる。確かに持っている。日の丸に対する複雑な気持ちがあるのを忘れないため。」と語っていたのが印象深い。象のオリの跡地使用については地主の中でまだ揉めているらしい。

3/1は朝730から【シムクガマ】へ。曇った空。少し寒い。住宅地から少し歩くとすぐにジャングルの様相。どうしてこんな所を米軍が見つけるのだろう、と思うほど緑生い茂る所。小川が流れ込む美しい空間。中はジメジメして滑りやすい。水が流れているのでひんやりしているが、一番奥には水が来ないため、ムッとするほど暑い。光を消すと真っ暗。目の前に手をかざしても見えない暗闇。このガマには移民帰りの人がいたため投降しみんな助かった。ガマの頭上に広がる【象のオリ跡】。草原のように広大なはらっぱ。住宅地の中には「ここから基地である」という印の跡。

朝食のあと【チビチリガマ】へ。山形ドキュメンタリー映画祭で観た映画『島クトゥバで語る戦世』で知ってからずっと心に刺さっている場所。シムクガマと全く印象が異なる。動物の臭いがする土地。禍々しい空気が漂う。知花さんは私たちをガマの近くの石段に座らせ、低い声で恐ろしい物語を語り出す。戦後38年間、タブーの土地であり、遺族は語ることができなかった。琉球政府は基地のため移民(=棄民)を奨励していた。移民の調査をした下嶋氏が聞き取って存在が判明した。83年の夏に2週間かけて調査し55名から聞き取る。その内20名は母親だった。なぜ自分の子を殺したのかという理由は異口同音。まさに皇民化教育の成果である。『南風の吹く日』下嶋哲朗著に記されている。451月にアメリカ軍上陸。85名(3ヶ月の赤ちゃん含む)が死亡。その内2名はアメリカに撃たれて死ぬ。リーダーは知花幸子(元従軍看護婦)。6割が18才以下の子どもで、1才や3才の子もいた。幼児は自決できない。親や大人が殺した。「集団自決」の括弧には、これは自決ではない、という思いがこめられている。まだお骨が残っているため、ふだんは入ってはいけないのだが、知花さんが案内してくれるということで、奥まで入っていく。天井の低い狭い壕。ビン、生活用具、歯などが残る。

【恨(ハン)之碑】は「アジア大平洋戦争・沖縄戦徴発朝鮮半島出身者恨之碑建立をすすめる会」が06年に建立。最初は韓国にできた。読谷村には特攻隊の収容壕があり、強制労働の朝鮮人に掘らせた歴史がある。韓国から持ってきた石が並ぶ。連れてこられた12万人の名簿が入っている。金城実製作のレリーフは、目隠しで後ろ手に縛られながらも威厳ある表情の朝鮮人男性、その後ろで嘆く朝鮮女性、その上方には醜い表情で追い立てる日本軍兵士。宮古島にも作ろうという動き。

かつて飛行機の格納庫だった【掩体壕】は、緑に覆われて不思議な空間となっていた。役場の近くにボロボロの粗末な木の柱でできた【義烈空挺隊玉砕之地碑】。お参りのあと。

基地の中に作られた【読谷村役場】。前の道の広くて立派なこと。元滑走路。小金井市役所もここにいっしょに作ってほしいくらい、立派な広い敷地。おしゃれで開放的なデザイン。公民館、ホール、議場が隣接しながらそれぞれ独立して作られている。ウィンザーホテルなんかじゃなくて、G8サミットはここでやればいいかも。

【喜名番所】に寄ったあと、崖に面影が残る【鉄血勤皇農林隊壕跡】へ。【牧原の慰安所】は真ん前にあったらしい。今は跡形もない。他の慰安所も、元の姿を留める所はほとんどないとのこと。今でも民家として使用している所もあるらしい。【安保の見える丘】は嘉手納基地の観光スポットだったが今は入れない。現在は丘の後ろのショッピングセンターの屋上から「見てもいいよ」と許可された部分を覗けるようになっている。広大な敷地内には亀甲墓などもまだ残っている。

【佐喜眞美術館】にて丸木位里、俊の描いた「沖縄戦の図」を見る。ずっと見たかった絵。『島クトゥバで語る戦世』の中、チビチリガマの絵の前で語るカマドさんの姿が目に浮かぶ。昨年、イトー・ターリさんが慰安婦についてのパフォーマンスをしたと聞くが、どんな雰囲気だったのだろうか。高校生向けの館長の解説の中で、国民保護計画に触れていたのが印象的。そういえば小金井の国民保護計画では核攻撃への備えにまで言及されていた。どこにもシェルターなんか無いのに。各自治体の計画について、みんなもっと知るべきだろう。

【沖縄国際大学】横を車で通り過ぎる。米軍ヘリコプターが落ちた時、焼けた木が残るのみ。【嘉数高台】からは普天間基地がよく見える。【トーチカ】のあと。【京都の塔】の唯一沖縄住民に触れられた碑文に注目。

夜は沖縄料理居酒屋にて交流宴会

3/2は琉球大学生の知花さんが案内。昨日の昼からようやく晴れてきた。南国の強い太陽の光。

南風原町陸軍20号壕近くの【憲法九条の碑】。他に読谷村役場、那覇市与木公園にもある。「憲法九条を世界に広め平和を守る南風原町民の会」が主導となり、南風原町の予算で075月に建立。その後ろにある黄金森(くがにむい)に登る。30本の通路(壕)、三角兵舎(小屋)から成る32軍の陸軍病院だった。【陸軍20号壕】は、44年の10.10空襲のあとから掘り始めすぐに完成。手掘りで崩れやすい。坑木が残る。全長70m。壕の入り口からすぐは軍関係者が、後半は傷病兵が使用。壕沿いに90cm幅の二段ベッドが並んでいた。見学に来たおじいさんの証言では、負傷兵が増えてくると、ベッドに人がいようと、二人三人とまとめて積み重ねられたとのこと。まん中の少し広くなった場所が手術室。少し離れた通路でひめゆりは休んでいたらしい。空気が重い。かがまないと歩けない。息苦しくなって座り込む。火炎放射器で焼かれた黒い跡。天井に「姜」という文字が三つ。朝鮮人の兵士が掘ったあとか。青酸カリで200人くらい自決させた。陸軍壕すべての収容は2,000人。20号壕は50人ほどの収容人数。当時の長田軍医は現在の南風原町役場の周辺に青酸カリを埋めたという。

【アブチラガマ】は陣地、病院、軍隊と住民の雑居と、用途が移り変わったガマである。中は整備され、立て札が立つ。20号壕と比べ、広々として空気も爽やか。地下の町といった印象。今は何も残らず。慰安所もあったが、当時ひめゆりの人たちはその近くには行かないように、と指示された。【南風原文化センター】の2階に山積みになった、軍靴やナタその他細々とした日用品が、ナチスの集めたユダヤ人の品物の山のような圧倒的な存在感。

【平和の礎】に刻まれた沖縄出身の戦没者の名前は男女半々くらいだが、本土出身者は男性名がほとんど。カマ、ナベ、ウシなど差別的な女性名が印象的。【韓国人慰霊塔】の周りを韓国から持ってきた石が飾る。塔の前の矢印は魂が戻る方向(ソウル)を示す。観光地化された【ひめゆりの塔】に唖然。「ひめゆりラーメン」とか「ひめゆりそば」まで。まわりは土産物屋だらけ。【魂魄の塔】は近くの海から拾った石灰岩、米軍から払い下げたセメントで作られ、周りの塔と比べ粗末で古い。46年建立。35,000のお骨が入っていた。碑文は「沖縄県遺族連合会」作成で新しいもの。違和感のある碑文。他県の塔はピカピカでお国自慢のデザイン。【摩文仁海岸】に降りる。サンゴがごろごろ転がる海岸を初めて見た。子どもが喜びそうな形。お土産にしようと拾い集めていると、骨を拾っているような感覚に襲われた。

夜は居酒屋にてお疲れ宴会。その後、ホテルにて反省宴会

学生たちの感想が新鮮。「ガマの中で死者たちの存在を感じた。先生は『平和のため』と言うことが多いが、本当は『死者のため』なのではないか。」「事前に勉強はしていたが、実際の基地の広さにショック。」「高校の修学旅行で同じ場所にも行ったが、知らなかった所や姿が変わっている所も多い。」などなど。今まであまり自分の意見を言わなかったのに、ちゃんと意見を持っているんだな、と改めて感じ、感動。

3/3は林先生の案内。陽射しが暑くなる。風は強い。

辻(遊廓)のなごりから出発。旭ヶ丘公園、対馬丸犠牲者のための【小桜之塔】。対馬丸以外の25隻の犠牲者1927人を慰霊する【海鳴りの像】と比較すると、なぜこんなに、と思う立派な塔。【波の上宮】は那覇港から出て行く船の安全を祈る場でもともと沖縄の信仰だったが、あとから鳥居が立てられイザナミなどの祭神に書き換えられた。【臺湾漕害者之墓】は、明治4年に台湾に遭難して殺された琉球の民のために明治31年に日本政府が建立。琉球を日本に併合するため。当時の沖縄県知事の奈良原繁は沖縄の自由民権運動を抑圧した。【殉職警察職員慰霊之碑】に名前が刻まれている荒井退造警察部長は、わりにいい人だったという話。警察もひどいことをしていたはずだったが、日本軍の方がひどかったので犠牲者とされている。

【二高女学校跡「白梅の乙女たち」の像】【久米村発祥地】をまわり、【積徳尚学女学校慰霊之碑】へ。24師団に配属。解散の時に「絶対死ぬな」と病院長が言い渡した。一高女学校校長は生徒を軍協力(ひめゆり部隊)させていた。師範学校のため動員の強制が強い。二高女学校校長はその姿勢に怒った。一高女学校校長は軍司令部に行って生き残った。男子部校長は摩文仁に逃げた。戦後、学芸大の教授に。一中の校長は軍国主義的だったので、犠牲者がかなり出た。二中の配属将校は生徒の徴収に反対だったので、わざと遠くて生徒が来れない名護に配属。通常は配属将校が指揮すると最後は切り込み部隊になったが、教員が指揮した場合は山の中で解散命令が出ていたりもする。

表向きは強制に従って皇民化教育をしているが、なんとか手段を尽くして生徒を救おうとした場合もあったが、かえって日本軍がスパイと疑う原因にもなり残虐さがひどくなることもあった。

指導者の質により左右される子どもたちの運命が、今の時代とまさに重なった。

林博史さんの、歴史家としていくつもの視点で物事を見る態度に圧倒された。犠牲者としての沖縄住民、残虐な日本軍というだけでなく、様々なケースがあり、様々な結果がある。しかし沖縄戦の本質ははずさない。印象で判断するのではなく、調査し検証された事実に基づいて考察を重ねている姿に、直に接することができたのは貴重な機会だった。また、ガイドとして未熟ではあるが、若い現地の人たちに解説を任せる姿や、ゼミの学生たちにそこはかとなく刺激を与える姿も教師として素晴らしい。うちの子たちも大学生になったら、こんな先生に出会えたらいいのになあ、とつくづく思った旅であった。